【お金の勉強】お金とは?お金の歴史を詳しく学ぶ
お金は物・サービスを購入する際の決済手段として使われおり、人間の生活に密接に関わっています。
現在、僕たち日本人は紙幣(日本銀行券)や硬貨というお金を利用して物・サービスをを手に入れていますが、お金が存在しない時代はどのようにして物・サービスをを手に入れていたのでしょうか。
また、どのような経緯でお金が誕生したのでしょうか。
この記事では、
- お金の歴史
- お金の起源
について説明しています。
お金は、経済用語で貨幣と呼びます。
以後、お金は貨幣と呼びます。
お金の歴史
貨幣が現在の紙幣・硬貨のように貨幣として扱われる為には、貨幣にどのような機能を持つことが必要なのでしょうか。
経済学上、貨幣は商品交換の媒介物になる物とされており、
- 価値尺度・・・商品の価値を測るものさしとしての機能
- 流通手段(決済手段)・・貨幣は決済手段であり、売り手と買い手の間を流通し続けるという機能
- 価値貯蔵・・・富の貯蔵手段としての機能
これらの機能を満たせば貨幣とみなされます。
貨幣史において貨幣は
- 物々交換
- 物品貨幣
- 金属貨幣
- 紙幣
と変遷されてきたと言われています。
定説では貨幣の起源や歴史は「物々交換」から始まったと言われていますが、歴史的には「物々交換」をしていたという証拠は全くありません。
物々交換
よく考えてみると、物々交換を貨幣として扱う事には少し無理があります。
それは、物々交換が成立するためには、双方の欲求の同時一致が必要だからです。
物々交換が貨幣として扱われている社会があったと仮定します。
物々交換①では
- 魚を取るのが上手い魚屋
- 豚の狩猟が得意な肉屋
魚屋も肉屋もそれぞれ捕獲したものを食し生活しており、余った食料は有効活用して他のモノと交換したいと考えているとします。
- 魚ばかり食べていると飽きるので、肉も食べたいなと思っている魚屋
- 肉ばかり食べていると飽きるので、魚も食べたいなと思っている肉屋
勿論、肉が嫌いな人、魚が嫌いな人もいますが、この場合、魚屋と肉屋の双方の欲求の同時一致が起こる可能性は高そうです。
物々交換②は
- 魚を取るのが上手い魚屋
- 靴職人の靴屋
のケースを考えてみます。
魚屋と肉屋間で起きた経済現象が、魚屋と靴屋間でも起きるでしょうか。
双方の欲求の同時一致の観点から、貨幣としての物々交換を考えると、物々交換が中心とした社会が成立する可能性は低いです。
物々交換が貨幣として扱われていた社会があるとしたら、
- 靴やアクセサリーの様な嗜好品を貨幣として選択せず
- 生活必需品を貨幣として保有する人々しか現れず
- 文明の利器が生まれにくい社会になってしまい
経済発展が難しくなります。
また、物々交換が貨幣として扱われる社会が成立すのが難しいと思われるのは、交換する物同士の価値が本当に等しいのかという点です。
魚屋と肉屋の例で言うと、
- 魚屋は、魚を1匹捕まえるのに、平均30分で捕獲
- 肉屋は、1日掛けて豚一頭捕獲
したとします。
この条件下で、魚屋と肉屋が
- 魚1匹
- 豚1頭
を物々交換する事は肉屋としては割に合わない物々交換になります。
そのうち、
- 肉屋は魚屋が魚1匹を30分で捕まえるのを知り
- >肉屋は激怒、魚屋に対して「魚40匹とじゃないと豚1頭と交換しない」とか言いそうですし
- 魚屋は好条件で肉を手に入れていたのに、現在より不利な条件で交渉してくる肉屋に対して、「この魚を捕まえるために半年間掛けて魚が取れる場所を発見した」等々の適当なウソをつき交渉を優位に進めようとするかもしれません
これは交渉という名の単なる騙し合いです。
芸能界の業界用語「バーター」は「束(たば)」の逆さ読みで、「抱き合わせ出演」の意味で、バーター取引とは関係ありません。
バーターという現代英語の日本語訳では、
- (物を)(物と)交換する(「trade」と一緒)
- (特に,利益に目がくらんで)(自由・地位などを)(…と引き換えに)売る
という意味で語源がおそらく古期フランス語の「bareter」から来ていると言われています。
この古期フランス語の「bareter」は日本語で
- 騒動を起こす
- だます,欺く
という意味だそうです。
もし、物々交換が貨幣として扱われていたら社会的に不都合なことが多く、物々交換が貨幣の役割を果たすしてたとは考えづらいです。
西インド会社
世界初の株式会社連合東インド会社(Vereenigde Oostindische Compagnie:VOC)は1602年3月20日にオランダで設立されたと言われています。
東インド会社と聞くと、オランダが本社でインドに子会社がありそうなイメージですが、そのような意味ではありません。
東インドとは、16 ~ 17世紀のヨーロッパの人たちにとってのインダス川より東の地域の事を指します。
当時、まだアメリカ大陸の存在はそれほど知られてはいませんでしたので、東インドとは主に現在のインドやインドネシアなど東南アジア地域を指していたものと思われます。
17世紀頃、こうした地域との貿易権を持つ特許会社が、イギリスやオランダなど高い航海技術を持つ国の中に誕生しました。
- オランダ・・・1602年、連合東インド会社(Vereenigde Oostindische Compagnie:VOC)
- イギリス・・・1600年、東インド会社(East India Company:EIC)
- フランス・・・1604年、東インド会社(Compagnie française des Indes Orientales)
他にも、スウェーデン、デンマーク等々も東インド地域との交易を図るため東インド会社を設立しています。
また、オランダは1621年に「西インド会社」を設立します。
西インド会社は、インド・東南アジアとの貿易を扱う東インド会社に対して、アメリカ大陸・アフリカとの交易を行う特権会社です。
1626年5月6日、オランダ西インド会社がアメリカのマンハッタン島を買収し、ニューアムステルダムと命名(現在のニューヨーク)してします。
マンハッタン島買収の際、オランダ西インド会社がインディアン(当時、アメリカの原住民)に島の代価として払ったものは、60ギルダー(24ドルに相当)のガラスビーズと言われています。
オランダ西インド会社が、どのようにしてマンハッタン島と24ドル相当のガラスビーズが等価だと信じ込ませたか分かりませんが、この交渉は成立しました。
この話しは、インディアン(当時、アメリカの原住民)の無知を逆手に取ったオランダ西インド会社が交渉という名の騙し合い(バーター取引)を行った例として有名です。
物品貨幣
「物品(商品)」を貨幣として利用することで、物・サービスの交換をスムーズにします。
つまり、間接的な物々交換の金融システムになります。
例えば、ある社会(コミュニティー)で、頻繁に大麦のやりとりがされているとします。
このコミュニティーにとって大麦は
- 誰にとっても必要な食料であり
- 保存が効き
大量に貯蔵しておいても困るものではありません。
「自分の商品を一旦、大麦に換えておけば、いつでも欲しいモノと交換できる」と気付いたコミュニティーの中の誰かが、大麦を
物と物の交換の仲介役 = 貨幣
にしようと提案します。
- 靴1足はを大麦2kg
- 魚1匹は大麦100g
あらゆる商品の価値を大麦の量に換算する事で、物の価値を共通の尺度で測れるようになります。
ここで、経済学上の貨幣の機能とはどのようなものであったかをおさらいしてみます。
- 価値尺度・・・商品の価値を測るものさしとしての機能
- 流通手段(決済手段)・・貨幣は決済手段であり、売り手と買い手の間を流通し続けるという機能
- 価値貯蔵・・・富の貯蔵手段としての機能
この機能を物品貨幣に照らし合わせてみます。
物品貨幣の例として「貝貨」で見てみます。
- 価値尺度 → 貝貨の数でモノの価値を測る。 例)魚1匹は貝貨5つ分と等価。
- 流通手段(決済手段) → 貝貨は手に入りやすく、売り手と買い手の間を流通出来る
- 価値貯蔵 → 貝貨は貯蔵可能
貨幣になる条件を満たしています。
物品貨幣の起源
世界のどこか一ヵ所から派生的に物品貨幣が広がったというよりは、コミュニティー(一定の集団)毎に、物々交換をするために良い方法はないかと知恵を絞り、そのコミュニティーで頻繁に使用且つ保存の効くものを間に挟む事で経済圏を作りました。
物品貨幣は、
- 貝殻や石などを用いる自然貨幣
- 家畜や穀物などの商品貨幣
に分類されます。
代表的な物品貨幣には、
- タカラガイなどを用いた貝貨・・・古代中国、オセアニア、インド
- 石貨・・・オセアニア
- 大麦・・・バビロニア
- 布帛(ふはく)・・・日本、中国、朝鮮
- 鼈甲(べっこう(熱帯に棲むウミガメの一種))・・・古代中国
- 鯨歯・・・フィジー
- 牛や山羊・・・東アフリカ
が存在します。
ヤップ島のフェ
21世紀の貨幣論では、特にヤップ島の石貨フェが象徴的に紹介されています。
物々交換の不便さを解消するために貨幣が生まれたというのが貨幣史の定説でしたが、この説とは別に「貨幣の始まりは、交換ができないほど巨大な石(石貨フェ)だった」という説もあります。
その交換ができないほど巨大な石は、ミクロネシア連邦のヤップ島にあり、フェと呼ばれています。
このフェが貨幣の起源だと言われており、フェ自体は大きくて1人では持ち運べない物で物品貨幣の役割を果たすはずのフェそれ自体は移動が伴わないことが多かったようです。
では、フェをどのように貨幣として利用したかというと、
- 持ち運んだのではなく
- フェ自体に「魚3匹」や「ヤシの実1つ」と、互いに物々交換したものを記録
つまり、商品の貸し借りを記帳(記録)するという金融システムになっていました。
このお互いの貸借の記帳が、貨幣の起源だと言われています。
逸話の中で、フェが海の中に沈んでも、そのフェに記録されている貸借を、そのコミュニティーの人々は覚えており、
- 「あそこの家は借りているモノより、貸しているモノが多く、悠々自適に暮らしている。」
- 「ここの家は、借りているモノが多すぎて、周りの住人に貸しを作りすぎだ。」
というようにコミュニティーの中でフェに刻まれている記録を共有し合っていたと言われています。
コミュニティー間で行われたフェに刻まれている記録を
- 相互に監視
- 貸借の信用をみんなが担保
する事で、貨幣としての信用を保持していました。
つまり、ヤップ島の貨幣であるフェは、
- 債権と債務を管理しやすくするための信用取引・清算システム
- 信用取引の帳簿をつけるための代用貨幣
という現代にも繋がる金融システムのを持っていました。
このヤップ島のフェの役割は、現在、僕らの生活の中にある暗号資産(仮想通貨)の役割と一緒です。
技術的な仕組みは違いますが、
- 非中央集権
- 参加者で相互監視
によって貨幣の機能を保っています。
現代の貨幣である紙幣は、日銀が紙幣についての発行権を持っています。
対して、非中央集権では発行体が存在せず、利用者で相互監視する事で貨幣として機能しています
発行権に関しての記事はこちら
金属貨幣
金属貨幣が経済学上の貨幣の要件を備えているか見てみます。
- 価値尺度 → 秤量貨幣・計数貨幣として価値を測定
- 流通手段(決済手段) → 運搬性において小さく優れている
- 価値貯蔵 → 耐久性に優れ劣化しにくい
計数貨幣・・・一定の形状・品位・量目を持ち、表面にその価値を示す数字あるいは刻印が施され、それによって数字または刻印に示された貨幣価値を保証された貨幣
日本では、1871年2月に現在の造幣局にあたる造幣寮が開設され、5月に新貨条例の制定があり、「円」という単位が正式に採用されました。
当時はイギリスから広まった国際的な金本位制が普及しており、新貨条例では金本位制が採用され、アメリカ・ドルの1ドル金貨に相当する1円金貨を原貨とする本位貨幣が定められました。
金属貨幣の起源
金や銀は、古来からなぜ「価値あるもの」とされてきたのでしょうか。
宝飾品の用途としては有能ですが、古代の人々にとって貴金属はあまり使い道がありません。
日用品の材料は木材や陶器で十分足りており、武器の材料としては柔らかく、鉄の方がよっぽど硬くて軽く適性です。
金や銀は木材・陶器・鉄等々と比べて希少価値はあるものの、物品貨幣の時のように誰もが欲しがる「実質的な価値」は有りませんでした。
何故、硬貨の素材として使われるようになったのでしょうか。
給料
世界最古の硬貨は、紀元前670年頃にアナトリア半島のリュディアで発明されたエレクトロン貨。
この世界最古の硬貨が発見された時代(紀元前700年~)は戦乱の時代でした。
この時代の世界の情勢を見渡すと
- インド・・・マガダ国とコーサラ国の抗争。
紀元前4世紀後半、ナンダ朝マガダ国をチャンドラグプタが打倒し、インド初の統一王朝であるマウリヤ朝マガダ国が成立。
- 中国・・・春秋戦国時代。
古代中国における周王朝の後半期に区分される時代であり、紀元前770年に周の王都が洛邑へ移されてから、紀元前221年に秦が中国を統一するまでの期間
- ギリシャ・・・ペルシア戦争・ペロポネソス戦争に代表されるような戦争が勃発
- ローマ・・・イタリア中部の都市国家から、地中海世界の全域を支配し、巨大国家にまで飛躍的に成長する共和政ローマ
このように世界では戦争は絶える事がありませんでした。
戦争には兵士が必要です。
何もインセンティブが無く、戦争に加勢したい人なんかいないはず。(インセンティブがあっても戦争に加担はしたくないです)
戦争をすればするほど、支配地が増え、
- 軍隊を強化する為の兵士
- 支配地をコントロールするための管理者・守衛者
も増えていきます。
君主にとって、兵士を上手く利用して自国の軍をコントロールする事が戦争において重要になってきます。
伝統的に、国家で特定の一人が主権を持つ場合、その主権者が君主であり、王・帝王・天子・皇帝等とも呼ばれる。
敵に勝利すれば、武器・食料・衣料・宝飾品等々を略奪できます。
武器・食料や衣料は軍の維持に活用出来ますが金銀財宝で作られた宝飾品は貴重ですが使い道がありません。
しかし、有能な君主はこの宝飾品の実に有効な用途を思いつきます。
- 金銀財宝を溶かす
- 一定の大きさのコイン状に加工
- その硬貨を兵士への給料として支払い
このようにして金銀財宝を有効利用し始めました。
税金
君主は兵士に硬貨を配ると同時に、自国民に対して硬貨での納税を布告します。
この瞬間、兵士を含む国民は硬貨を集めるのに必死になるのです。
一般国民は納税するため、兵士の持つ硬貨を手に入れる為に、彼らの欲しがるものを提供しようとします。
このようにして、硬貨による取引が行われるようになりました。
硬貨が納税方法として定められた途端、食物や嗜好品と交換できる貨幣へと変貌を遂げたのです。
紙幣
紙幣は経済学上の貨幣の要件は満たしています。
- 価値尺度 → 単位があり価値の測定が可能
- 流通手段(決済手段) → 金属より軽く流通しやすい
- 価値貯蔵 → 紙幣自体には価値がない
中世には、名目貨幣である紙幣が登場していました。
紙幣は運びやすく、原料とコストの面で利点が多いですが、発行が容易な為インフレーションが発生しやすく、しばしば国家の弱体化につながったと言われています。
日本語の略称はインフレ。
インフレーションに関する記事はコチラ
紙幣には、
- 中央銀行が発行する銀行券
- 政府が発行する政府紙幣
存在していました。
銀行券
ヨーロッパで最初の紙幣は、1661年にスウェーデンで発行されました。
スウェーデンは戦費によって
- 財政が疲弊して金銀が不足
- 重量がかさみ取引に不便な銅貨を用いていました。
その代わりとして、政府の承認を受けた民間銀行のストックホルム銀行が銀行券を発行。
のちにストックホルム銀行は破綻し、初の中央銀行であるスウェーデン国立銀行の設立につながります。
政府紙幣
世界初の紙幣は宋の交子とされています。
銅が不足して鉄貨を用いていた四川において鉄貨の預り証として発行されました。
四川での成功を知った宋政府は
- 交子の発行を官業とし
- 本銭(兌換準備金)や発行限度額を定め
- 交子を手形から紙幣に定め
1023年から官営の交子を流通させました。
紙幣の起源
スペインのカスティーリャ王国は、アメリカ大陸の植民地化によって金銀を獲得し、
- 16世紀にはスペインのエスクード金貨
- レアル銀貨
が国際的な貨幣として流通しました。
このアメリカ大陸からの金銀流入は価格革命と呼ばれる現象の一因とも言われています。
- メキシコ
- ペルー
- ボリビア
などアメリカ大陸から大量の貴金属(おもに銀)が流入したことや、ヨーロッパ等各地の商業圏が結びついたこと(商業革命)で需要が大幅に拡大されたことで、全ヨーロッパの銀価が下落し、大幅な物価上昇(インフレーション)がみられた現象
この価格革命を起因として、
- 西ヨーロッパの金銀の価格は高騰
- 人々は盗難や磨耗の危険を避けるために金銀を貴金属細工商である金細工職人の金庫に預け
- 預り証として金細工職人が発行する証書を受け取りました。
この証書は金匠手形とも呼ばれ、これが銀行券の原型と言われています。
そして、人々は金銀を金細工職人の金庫に預けたまま、金匠手形で直接取引を行うようになっていきました。
この金匠手形は個人の金細工職人が発行した預り証ですので、流通できる地域は市場単位の限定的なもので全国に流通することはありませんでした。
金属貨幣の硬貨は、納税の義務によって各国のソブリンマネーとなりました。
現代の「ソブリンマネー」は中央銀行が発行する貨幣。
中央銀行制度以前の「ソブリンマネー」は、その国を統治している者(国王等)が発行する貨幣を指します。
では、紙幣はどのようにしてソブリンマネーとなったのでしょうか。
イングランド銀行
1694年にイギリスでは
- 戦費調達
- 信用貨幣供給のため
イングランド銀行が設立されますが、それまでソブリン金貨を利用した金属貨幣が経済の中心でした。
スターリング・ポンド(pound sterling)・・・現在も使われているイギリスの通貨単位。
この時期、イギリスでも人々は金銀を金細工職人の金庫に預け、金匠手形を手にし、その金匠手形を利用して直接取引も行われています。
しかし、この金匠手形という預り証は、あくまで金細工職人の個人発行ですので、イギリス全国民が信用するような貨幣ではありません。
金細工職人は自分のビジネスモデルの拡大の為、近現代の銀行の「貸出」の役割を始めます。
金細工職人Xがいるとします。
ある月の金細工職人Xの処に、
- 金銀を預ける顧客が5人
- 1人あたり100グラムずつ預託
顧客は金銀の引き換えに金匠手形を受け取ります。
この時点で金細工職人Xの処には、金銀500グラムが保管されています。
この「貸出」で経験を積んだ金細工職人Xは、
- 顧客が毎月、金銀を取りに来るわけではない
- 金銀200グラムが毎月、保管されたままある
という事に気が付きました。
そこで、金細工職人Xは
- 金銀と引き換えに振り出していた金匠手形を、金銀という担保なしに振出し
- その担保なしに振出した金匠手形で、金匠手形が使える店舗で買い物
を始めました。
元々、金匠手形は金細工職人が独自に発行しており発行権は金細工職人にあります。
金銀を預けている顧客が一斉に金匠手形と引き換えに金銀を金細工職人の処へ取りに行くと
- 足りない金銀を他の金細工職人から調達
- 足りない金銀を市場から購入
- 破綻して信用を失う
等々の手段しかなくなります。
金銀と引き換えに金匠手形を振出す金細工職人がイギリス全土に現れ、それぞれが独自の金匠手形を発行するようになった為、多種多様な金匠手形が現れました。
金匠手形は金細工職人の信用力に依存することになったため、やがて金匠手形を発行する権限を持つ金細工職人が統合されます。
それが銀行です。
近現代の銀行のはじまりは、政府のような中央集権型の銀行ではなく、民間から出来た商業銀行なのです。
話しが少し脱線しましたが、イングランド銀行に話を戻します。
先にも述べたように、イングランド銀行の設立の契機は
- 戦費調達
- 信用貨幣供給
です。
1689年にウィリアム3世がオランダから呼ばれ、イングランド王に即位しました。
ウィリアム3世は着任早々、フランスと九年戦争(1688 ~ 1697年)を開始します。
この戦争は、戦費の大部分が
- 税収
- 短期借入金
でまかなわれました。
短期借入金は議会が承認した新税からの先借りです。
この時代には
- マグナ・カルタ
- 権利の章典
の制定・発布により国王の絶対的存在が弱まり、議会及び国民の存在が尊重されてきました。
マグナ・カルタ
法をも超越した絶対的権力者だった王は、1215年に制定されたマグナ・カルタの法の制限により議会を尊重する事となりました。
イングランド王国のジョン王により制定された憲章。
イングランド国王の権限を制限したことで憲法史の草分けとなりました。
その主な内容は
- 国王の徴税権の制限
- 教会の自由
- 都市の自由
- 不当な逮捕の禁止
また、
- 第12条で、国王が軍役金を賦課する場合は、諸侯の会議に承認を得る必要
- 国王といえども議会の議を経ずに課税は出来ない
- 法の支配と議会政治の原則の意義
が求められています。
権利の章典
また、この時代にウィリアム3世は権利の章典を制定・発布します。
- 議会の同意を経ない法律の適用免除・執行停止の禁止
- 議会の同意なき課税、平時の常備軍の禁止
- 議会選挙の自由、議会内の発言の自由、国民の請願権の保障
- 議会を召集すること
という内容で構成されており、現在のイギリスでの不文憲法の根本法ともなっています。
イングランド銀行の設立
ウィリアム3世はのフランスと九年戦争を始めます。
当時最強国だったフランスとの戦争により戦費が増大していきます。
歳出は600万ポンド。
戦費を賄うため、ウィリアム3世は増税し、その結果、歳入は年400万ポンドまで確保します。
しかし、新たに金属貨幣を鋳造しようにも原料の金銀が枯渇しています。
そこで、議会が承認した短期借入金をゴールドスミス・バンカーや商人から借り、戦費を賄うことになります。
ゴールドスミス・バンカー(Goldsmith banker)とは金細工職人のファミリーネームです。
和訳するとゴールドは「金」。
スミスは、アングロ・サクソン語(古英語)の「職人」
ゴールドスミス・バンカーは、
- 金を保管する堅牢な大型金庫を保有
- 顧客の金を預かる金保管業務を営み
- 金と引き換えに金の預り証(金匠手形)であるゴールドスミス・ノートを発行
していました。
問題は、短期借入時、30%>という高金利で借入れし、資金繰りを行っていたということです。
ウィリアム3世自身は、オランダからきた国王でありフランスに勝利する事だけに集中していたため、国庫に関しては疎かになっていました。
フランスとの戦争のため、ウィリアム3世は短期借入金で80万ポンドを調達。
しかし、残りの不足分120万を調達する手段が見つかりません。
そこに、スコットランド出身でカリブ海賊だったウィリアム・パターソンという民間人が
- 民間から出資を募ってイングランド銀行を設立
- 8%の年利で120万ポンドで国王に貸付
というアイデアを出しました。
30%という高金利で借入れをしていたウィリアム3世にとって、8%の年利で借入れが出来るというのは魅力的に映り、イングランド銀行は、1694年に発布された財源調達法という法律の中に記載されることで、正式に創設されました。
財源調達法(トン税法)
ウィリアム3世時代のイギリスの財政事情は悲惨です。
戦争するために増税して国民から徴税し、それでも足りないので短期借入金を調達します。
その為、当時の国王の信用は全くありませんでした。
権利の章典で国王の権力が制限されてはいるものの、絶対的存在であることには変わりありません。
歴史上、国王の代替わりに合わせて借金を踏み倒すケースもあり、多くの金貸商人が破産しています。
貨幣を貸したくはないけど、絶対的存在の国王に逆らうわけにはいきません。
その信頼力の無さが、時として借入金利30%という高金利に設定されることがあったのです。
そこで知恵を絞ったのが民間出資のイングランド銀行。
イングランド銀行設立の根拠法は、財源調達法(トン税法)です。
この法律の中に、トン税(港に停泊する船にかける税金)や酒税の一部を、必ず利息の支払いに充てることが明記されました。
権利の章典が発布されており、国王であるウィリアム3世といえども、法の制限を受ける存在です。
法律を無視して借入金を踏み倒すことは出来ません。
この仕組みを元に、イングランド銀行は民間から出資金を募りました。
貸し倒れるリスクの少なさから、富豪たちはイングランド銀行へ出資。
公募からわずか2週間余りで120万ポンドが集まったのです。
通貨発行権
イングランド銀行の設立には、国王の借入金の利息の支払いを法律に明記するという工夫ともう一工夫ありました。
その工夫とは、国王への融資と引き換えに銀行券発行の許可をもらうこと。
財源調達法に、
- 「トン税を利息の支払いに充てる」ということの他に、
- 「国王に融資する予定の120万ポンドと同額まで、銀行券を発行する権利」
を明記してもらったのです。
この条文を根拠に、イングランド銀行は120万ポンド分の銀行券を発行し、それを国王へ貸し付けたのでした。
このシステムこそが現代の中央銀行・政府の関係の原型で各国毎に法律で細かい規定がされています。
以上、お金の歴史・起源について説明しました。
貨幣の役割は時代の流れと共に
- 物品貨幣・・・信用関係(貸借関係)の記録
- 金属貨幣・・・計算貨幣
- 紙幣・・・中央銀行の借用証書
と変遷してきました。
現在、日本で日本銀行券を使って買い物・サービスを購入している僕らは、日本銀行の借用証書を押し付け合ってるという事になります。
経済学者のケインズ(1883 〜 1946没)やフリードマン(1912 〜 2006没)は、ヤップ島のフェを「貨幣の本質を示す好例」として引用しています。
また、イギリスの哲学者であるジョン・ロック(1632 〜 1704没)は金属主義(貨幣価値は、その貨幣の金属価値に帰属すべき)を論じ、それを通じて貨幣政策を説き、政府がジョン・ロックの助言の元、改鋳を行った結果、経済はデフレーションによる停滞を起こしてしまいました。
つまり、貨幣は時代に沿った形で形を変えていく必要があるという事です。
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